山口県萩市江崎を散策する
*江崎港・江崎駅*
2015年04月11日撮影
*帆船時代の寄港地でもあった江崎。入り江のまわりにU字型に集落が形成されている 。 *田万川町江崎の市外地は、東南西は丘陵及び山にとり囲まれ、江崎湾が北に向って細長く日本海に開け、そしてこの湾の最奥部周辺に市街ができ、市街地は低地にある。 *かつて江崎港には芸者の置屋が三軒もあり人力車で汽帆船の乗組員が日和待ちをしている宿屋に呼ばれていったという。 *古くから国境の港町だった江崎湊は、江戸時代には萩藩と津和野藩の外港として栄えました。 http://www.ichiro-ichie.com/index_top.html
萩市江崎は山口県最北端で日本海に面した県境の漁村である。 古い町並みを歩く 田万川の地名は、旧江崎町(上田万・下田万・江崎)と旧小川村(上小川・中小川・下小川)からできています。 「田万」の起源は詳かではありませんが、応永年間(約600年前)にすでにこの郷名があり、慶長5年(約400年前)に田万郷上・下といわれていました。 「江崎」は往古江津港と称し、阿武郡十郷の米をこの港に集め、若狭方面への積み出し港で北前船が頻繁に出入りして繁盛していました。 昭和に入り、国鉄山陰線の開通により江崎駅が設置され、阿武奥地の交通、産業文化の中心地となっていきました。 昭和30年4月1日、町村合併促進法により、旧江崎町と旧小川村が合併して、田万川町として発足。その後、昭和31年9月30日、境界線の変更により、須佐町の一部(江津・尾浦)を編入して今日に至っています。 平成17年3月6日に萩市と合併しました。田万川は、山口県の最北端に位置し、東は島根県益田市および津和野町、南と西は須佐に隣接しています。 東西9.3km、南北16.8km、面積78.20平方km、人口は約3600人(平成16年3月現在)であり、阿武町に源を発する田万川が本町の中央部を北流し、諸河川と合流して日本海に注いでいます。産業は、農林漁業の第一次産業を主体にした自然環境に恵まれた町です。 海岸部は、北長門海岸国定公園地域内でリアス式の奇岩に富んだ美しい自然環境に恵まれており、その中に江崎湾(天然の良港・江崎漁港、泊地面積5.86平方km)を擁しています。 北方を横断する国道191号、JR山陰本線、中央を南北に縦貫する県道および小川地区から益田市に至る県道などは主要路線として存在しています。また国道191号線を利用すれば、益田市から25分、萩市から50分の行程です。田万川内主要公共機関、施設などはこれらの路線沿線に集中しています。 産業は、日本海内陸の河川沿いの平坦部に米作を主体とした農業が発達しています。平山台を中心とした丘陵地では果樹を生産しています。海岸部は江崎湾を中心として水産業を営んでいます。 萩市田万川地域は海と山に恵まれ特産品が豊富です。海の恵みは良質の「煮干いりこ」をはじめとする特産品を生みました。
山手では何といっても小川地域平山台の果樹が有名。平山台は、桃源郷の里を夢みて農業の将来を賭けて開発された台地です。 もも、なし、りんご、ぶどうなど栽培農家が農園を経営しています。
地域別人口と世帯数(平成27年3月末日現在)
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8月 | 道の駅夏祭り | 田万川地域 | 開催場所:江崎地区 道の駅ゆとりパークたまがわ 「メインは[豪華景品が当たるビンゴ大会] ・・・夏の夜のひと時をお過ごしください。」 |
たまがわ夏まつり | 田万川地域 | 開催場所:江崎地区 弁天公園周辺 地元芸能中心のプログラムです。 まつりの最後を締めくくるのは約2,000発の花火です。 花火をセットした会場の台船は祭り会場から目と鼻の先。毎年大好評です。 | |
江崎地区盆踊り大会 | 田万川地域 | 開催場所:江崎地区 コミュニティーセンター駐車場 ●地元の盆踊りです。 | |
小川地区夏まつり | 田万川地域 | 開催場所:小川地区 萩市田万川総合事務所小川支所前庭 ●地元の夏まつりです。昼の部・夜の部多数イベントあり。 | |
西堂寺まつり | 田万川地域 | 開催場所:江崎地区 西堂寺 8月24日(メイン)盆踊り・灯篭流し他、25日 |
(現在の航空写真・Googleと1975年の航空写真・国土地理院)
(引用:萩阿武商工会ホームページ)
江崎の町並みです。江崎大漁橋から撮影
江崎上本町より見た江崎港。 片上川にそって本町、土井、中町の街並みが広がる。 港の向こうにそびえる山は、行者様と磁場で有名な高山。 (田万川町・大正12年)
1991年8月、新市場から江崎湾を望んだ一枚です。
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さて、江崎を歩きます。
やきもちやさん。昔からあるコンビニです。
昔はここにしかテレビが無くて、みんなで見に来たそうです。
ここはかつての国道だったそうです。
江崎の町並み
お祭り
お祭り
このあたりです
ここは既に空き家のようです...。
1991年の写真・酒屋さんだったようです。
西堂寺(さいどうじ)・六角堂
六角堂・・・萩市江崎の西堂寺境内にあります。 西堂寺本堂は、湧出山西堂寺と称し、宗派は曹洞宗、本尊は薬師如来、応永年間に創建されました。 住職によると、島内は風は強いが波をかぶったことは一度もないという。 |
昭和初期の古写真
六角堂からの眺め
六角堂
[宗派]:曹洞宗 [本尊]:薬師如来 [本寺]:須佐町 大薀寺 (田万川町史より抜粋) 応永の頃(1400年頃)鍋山に住む長者の娘が江崎湾で投身し行方知れずになった。その後、漁師の網にかかった仏像を母は娘の化身と信じ、尼になり、江崎湾の浮き島に御堂を建てた。 |
西堂寺の古木です。脇の岩場・水面で腕の折れたカモメが休んでいました・・・。
バス停
六角堂から新市場へ向かう橋
江崎大漁橋を観る
1991年、江崎大漁橋が無かった頃。
川の流れです
電気屋さん。昔からあります。
昔このへんに釣具店があった記憶があります。
ちょっと怖いおじいさんが釣具店をやっていました。
新しいお店です。営業していました。
ブルーベリーのお店も。
新市場を眺めます。
いまはこのへんです。
新市場から見ます。正面の道の下で、昔はあさりをとりました。
1991年8月
新市場です。変わりません。
1991年8月
ポンツーンも昔のままだと思います。
1991年8月
大橋を観ます。
新市場です。
いまは閑散としています。
このへんでよく遊びましたね。
1991年8月
西堂寺・六角堂で人が海を覗き込んでいます。複数のお客さんが来ていました。
橋を渡って対岸へ。厳島神社です。
昭和40年頃の写真・厳島神社
厳島神社(通称 江崎の弁天様) |
大正12年の古写真
歴史があります。
本殿は新しいようです。
昭和49年寄進の舞台。お祭りで使われたそうです。
旧市場があった場所です。ふるさとセンターが左にあります。正面青い看板は野村鉄工所さんです。船を直しています。
古い町並みですね。
港の北側の町並み。
このへんです。
大通りに出る手前です。お婆ちゃんが昔話をしていましたね。
水路があります。
↓道筋は変わらないですね。大正12年1923年
お寺がありました。
【寺 号】 教専寺(きょうせんじ) (じょうどしんしゅう ほんがんじは やまぐちきょうく すさそ) (やまぐちけん はぎし おおあざ えさき) |
(奥様でしょうか?たまたまの私を見かけて「本堂を開けましょうか?」と言っていただきました。ありがとうございます。)
正直屋が見えます。
売り家になっていました。昔の衣料品店です。ここは支店で、本店は益田にあるそうです。
国道の交差点です。
左手にナカモト薬局さんが見えます。
江崎本町中本商店前、家族と従業員。中本家は度量衡器の販売・修理業のかたわら金融業などを営んでいた。左の小さな建物は当時の消防倉庫。街の中心地であった。
(田万川町江崎本町・明治末期)
交差点の近くにレストランがありました。かなり大きかったです。いいにおいがしていました。
(グーグルマップより)
レストラン松岡|Restaurant MATSUOKA
駅へ向かいます。小学校がありました。
萩市立多磨小学校
山口県萩市大字江崎522番地 校 長 中島 義人
明治 7(1874)年 9月 江崎小学校開設 |
近くに病院の跡があります。
もう40年近く前ですが、名医の先生が開業しました。そしてご結婚されました。しかし不幸にも病気で相次いで亡くなられたそうです。合掌。
当時のままに建物が残されています・・・。
近くに立派な石垣があります(グーグルマップより)
2015年4月には一部が崩落していました。お寺の跡でしょうか?竹薮になっていました。
新しい中学校もあります。
山口県萩市立田万川中学校 所在地 〒759−3112 本校は山口県の北端に位置し、島根県益田市及び津和野町に隣接している。地域の中央を田万川が北流し日本海に注いでいる。昭和30年4月1日、旧江崎町と旧小川村が合併して田万川町が誕生し、平成17年3月6日に広域合併により萩市となる。平成15. 4. 1 12年間の歳月をかけて、町民の理解と創意を結集して、小川中学校と多磨中学校を統合し、田万川中学校として開校。新校舎ができるまでは旧小川中学校校舎で生活していました。 |
向かいの自転車屋さんは昔からあるそうです。
椿自転車屋さんのある三つ角。左は益田への道です。(グーグルマップより)
遠くに駅が見えてきました。
江崎駅。おばあさんが昔話をしていました。
乗車人員推移 | |
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年度 | 1日平均人数 |
1999 | 144 |
2000 | 128 |
2001 | 114 |
2002 | 111 |
2003 | 89 |
2004 | 90 |
2005 | 78 |
2006 | 81 |
2007 | 69 |
2008 | 66 |
2009 | 60 |
2010 | 49 |
2011 | 43 |
2012 | 49 |
2013 | 53 |
江崎駅の開業を祝っての縁門(アーチ)と地区民総出の祝いの出し物。
(田万川町下田万・昭和3年)
江崎駅。開業は昭和3年3月25日。山陰線が全線開通したのが同8年2月24日。
以来、駅前に人家が集まり、駅前通りの繁華街をつくる。手前の建物は多摩小学校。
(田万川町・昭和8年)
駅前のロータリーです。中華そば屋さんがあったようです。
やない食堂(柳井中華そば店) JR山陰線の江崎駅前にあるラーメンの秘かな名店だったのですが、久々に訪れると閉店していました。 昔ながらの醤油系ラーメンで、懐かしさを感じられるしつこさのない味が、その建物の趣とともに好きだったのですが、2013年5月に閉店してしまったようです。定食もあり、好きだった店で、水害の影響で山陰線が止まったこともあり、どうなったのか気になっていたのですが…。どんどん寂しくなっていく江崎駅前の数少ない街の灯りだったのですが、閉店してしまったことが残念です。(食べログより) |
駅から観ます。右手に松井医院が見えます。先代は亡くなったそうですがご令息が今も診察をされているそうです。
一気に港まで戻ります。
この辺りです。
この下中町で「江崎のまるきぶね」が発掘されています。
現在は、防府市の海洋民俗資料収蔵庫に保存されています。 「まるきぶね」は、昭和30年(1955年)に下中町で発見されました。全長7.06メートル、幅員は83.3センチメートルあり、舟首には舟をつなぐ綱を通すためのくり残しの突起があります。材質はモミで、一本をくりぬいて作った「くり船型丸木舟」。県内で、はじめて発見されたものです。 http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/3286.pdf [発見の動機] 浜崎嘉人氏が水産加工場に加工用かまどを設置するため同屋内を掘り下げたところ地下約90cmの地点より発見したものである。 [出土地の地理的概要] 田万川町江崎の市外地は、東南西は丘陵及び山にとり囲まれ、江崎湾が北に向って細長く日本海に開け、そしてこの湾の最奥部周辺に市街ができ、市街地は低地にある。まるきぶねの出土地点は、この江崎湾の最奥部の南岸の県道の両側に立ちならぶ人家をへだてて約45m内外の地点であって、又この出土地点より33m南にはけずりたった断崖をなす丘がある。 [まる木舟出土地点の地層及びまる木舟の出土状況] 出土地点の地層状況は現在の地表下76cm〜91cmは埋立したものでその下は泥土層である。この泥土層の上面が即ち旧地表面で、まるきぶねはこの泥土中に存在していた。刳舟型丸木舟は、山口県においては始めての発見であり、勿論、現在本県においては、使用されておらず、その製作技法も伝えられていない。 ただここに注目すべきは「萩古実未定巻之覚」という本に萩鶴江の漁夫は元禄、宝永の頃までまるきぶねを使用していた記事のあることである。即ち「鶴江釣りと漁人の舟は丸木舟とて田舎の水溜の様に木を鑿りて舟として用之元禄宝永頃迄大方如此何時よりか今の様になりたり」とある。丸太舟とて田舎の水溜の様に木を鑿りて舟とし、というようにその造りについてはまことにばく然とした記事であってその詳細はわからない。 とにかく萩鶴江といえば江崎よりあまり遠くない同じ萩藩内の事でもあり、必ずや江崎地方にもその使用のことはあったと考えられ、この江崎出土のまるきぶねの年代を考察するに貴重な一つの鍵となるもので重要な記載である。 そしてこの江崎出土のまるきぶねの製作技法についてみるに既に金属製の刃物を使用している事は、うなずかれる。岸に打ち込んだ杭は刃物で削り舟首に残っている舟繋ぎ用の綱を通すためのくり残しの突起や、その他舷の数カ所にある穴のあけ工合など何れも刃物を使用した形跡があること等、既に金属製刃物使用期に製作されたものであることを証している。 |
この辺に釣具・釣りえさ店がありましたけど、どこだったか分かりませんでした。
近くに豊田物産さんがあります。豪家ですね。
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この左の駐車場には昔(40年前)には土塀の蔵がありました。
お葬式
昭和50年代の写真です
旧市場があった場所まで戻りました。
船も減りましたね・・・。
かさ上げ工事をしています。地盤沈下もよんでいるとか・・・。
1991年8月。船がびっしり停まっています。
旧市場の写真で終わります。
■萩のあまだい船団(文章はテレビ朝日|食彩の王国より) 山口県萩の周辺は水深200mくらいまでの海底がある大陸棚で餌が豊富なため、アマダイの好む環境が揃っている。江崎漁港はアマダイ漁の船が最も多い漁港だ。魚上では漁師の奥さん津田厚子さんがアマダイの餌の準備をしていた。餌はイカで、小さく刻み一つづつ針にかけていく延縄漁をして捕る。漁師の仕立克美さん(74)は、20歳の頃に漁師となり、イカやイリコイワシの漁をしていたが、不漁が続きそこで目をつけたのがアマダイだった。
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