山口県萩市江崎を散策する

*江崎港・江崎駅*

2015年04月11日撮影

 

 

*帆船時代の寄港地でもあった江崎。入り江のまわりにU字型に集落が形成されている 。

*田万川町江崎の市外地は、東南西は丘陵及び山にとり囲まれ、江崎湾が北に向って細長く日本海に開け、そしてこの湾の最奥部周辺に市街ができ、市街地は低地にある。

*かつて江崎港には芸者の置屋が三軒もあり人力車で汽帆船の乗組員が日和待ちをしている宿屋に呼ばれていったという。

*古くから国境の港町だった江崎湊は、江戸時代には萩藩と津和野藩の外港として栄えました。

江崎浦は深い入江の奥に位置する天然の良港で、漁業のほか阿武十八郷の米の積出港として発達。北前船の西廻航路の開設により、長門国の玄関口として重要度を一層増し、藩の御米紙蔵や周辺海岸警備の為に五浦究役所が置かれます。
商港として藩から保護され、廻船誘致の為に春秋二回の芝居公演や、定期市が許可されたほか、他国からの現金収入を得る目的で、石見国側の使用も許可され、津和野藩の御米紙蔵も置かれていました。
そうして諸国の商船が往来する一大商港として繁栄しましたが、明治の山陰本線開通により商港の役割は終わりを告げ、その後は漁港として発展していきました。

一路一会古い町並みと集落・山陰>江崎
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ttp://www.ichiro-ichie.com/index_top.html

 

萩市江崎は山口県最北端で日本海に面した県境の漁村である。
享保12年(1727)に賀川村から分村して成立した村。古くは江津の湊と呼ばれ、天保13年(1842)に萩藩が作った「防長風土注進案」によると、阿武郡18郷の米を集め若狭国から京・大坂に向かって積出していた。また当時の家数328・人数1,306、船が120艘あり、うち廻船4艘、漁船は160艘あった。328戸のうち浦方戸数は135・地方戸数192を数える。
湾入りした江崎港は東西を山に囲まれた天然の良港で、鯛・鯖・鯵・鰤など多種多様の魚が水揚され、浜において売買し、仲買人に引き取られて石見津和野や安芸までも売りに出された。
また西廻り航路が開設されてからは、長門国の玄関口としてその重要度を増した。廻船として500石積み一艘を含む4艘を持ち、阿武地方の物資集散地として機能していた。交易の品々は米穀・半紙・黒保・蝋鉄・刀金・綿・芋・端物・古手・肥し物・材木・板類・煙草・油・茶・畳表類・塩・薪・生魚・干魚などあらゆるもので、他国の船が入津の際は問屋が立会で売買した。
湾は深く入りこみ、その奥に港があるので、日本海の荒波の影響も受けない天然の良港で、U字型の入江の両側に船留まりが設けられている。
港の入口にはまるで防波堤のように突き出た小島に、六角堂を持つ西堂寺が港を守っているかのごとく建っている。今の建物は元禄9年(1696)の再建と云うから値打のある六角堂だ。
町並みを構成する個々の建物も、特別豪華な家屋は見られなかったが、伝統的な様式の建物が連なっていて、古くからの物資集散地、港町の名残が色濃く残る現役の漁師町である。
建物は板貼りを多用した建物が多いのは漁師町の特徴であるが、中2階建ての家屋が多いのも特徴だろう。
掲載したのは町並みの写真ばかりだが、この港を取り巻く環境や風景はすごく心に響く癒しの風景だと思う。漁村の原風景と言っていいだろう。
訪ねたのは4月末の天気の良い夕方。港の水の色も真っ青で、夕陽があたった港・漁船・民家の取り合わせが最高によく感激した。
一旦、近くの宿に着いてから、再びこの漁港に戻り、暮れゆく漁港の風景を楽しんだ。
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年

古い町並みを歩く
http://matinami.o.oo7.jp/tyugoku2/hagi-ezaki.html

 

田万川の地名は、旧江崎町(上田万・下田万・江崎)と旧小川村(上小川・中小川・下小川)からできています。 
 「田万」の起源は詳かではありませんが、応永年間(約600年前)にすでにこの郷名があり、慶長5年(約400年前)に田万郷上・下といわれていました。 
 「江崎」は往古江津港と称し、阿武郡十郷の米をこの港に集め、若狭方面への積み出し港で北前船が頻繁に出入りして繁盛していました。 
 昭和に入り、国鉄山陰線の開通により江崎駅が設置され、阿武奥地の交通、産業文化の中心地となっていきました。 
 昭和30年4月1日、町村合併促進法により、旧江崎町と旧小川村が合併して、田万川町として発足。その後、昭和31年9月30日、境界線の変更により、須佐町の一部(江津・尾浦)を編入して今日に至っています。
 平成17年3月6日に萩市と合併しました。田万川は、山口県の最北端に位置し、東は島根県益田市および津和野町、南と西は須佐に隣接しています。
 東西9.3km、南北16.8km、面積78.20平方km、人口は約3600人(平成16年3月現在)であり、阿武町に源を発する田万川が本町の中央部を北流し、諸河川と合流して日本海に注いでいます。産業は、農林漁業の第一次産業を主体にした自然環境に恵まれた町です。
 海岸部は、北長門海岸国定公園地域内でリアス式の奇岩に富んだ美しい自然環境に恵まれており、その中に江崎湾(天然の良港・江崎漁港、泊地面積5.86平方km)を擁しています。
 北方を横断する国道191号、JR山陰本線、中央を南北に縦貫する県道および小川地区から益田市に至る県道などは主要路線として存在しています。また国道191号線を利用すれば、益田市から25分、萩市から50分の行程です。田万川内主要公共機関、施設などはこれらの路線沿線に集中しています。
 産業は、日本海内陸の河川沿いの平坦部に米作を主体とした農業が発達しています。平山台を中心とした丘陵地では果樹を生産しています。海岸部は江崎湾を中心として水産業を営んでいます。

萩市田万川地域は海と山に恵まれ特産品が豊富です。海の恵みは良質の「煮干いりこ」をはじめとする特産品を生みました。 山手では何といっても小川地域平山台の果樹が有名。平山台は、桃源郷の里を夢みて農業の将来を賭けて開発された台地です。 もも、なし、りんご、ぶどうなど栽培農家が農園を経営しています。
遠方からの来園者も多い。また「東洋美人」山田錦にこだわり、ファンの多い清酒です。
(引用:萩阿武商工会ホームページ

江崎地区・小川地区(旧田万川町)Wiki
国道191号沿いの地域。山口県の最北端に位置する。
島根県益田市に接し、経済圏・生活圏としては萩市中心部よりも近接する益田市との結びつきが強い。日本海に面しており、気候は比較的温暖だが、益田市との県境は冬季積雪がある。産業は主に漁業と農業であり、東部の小川地区では梨や桃等、果樹の生産が盛んである。

地域別人口と世帯数(平成27年3月末日現在)

地域世帯数
田万川地域

小川

468

474

564

1,038

江崎

835

857

976

1,833

小計

1,303

1,331

1,540

2,871

8月道の駅夏祭り田万川地域開催場所:江崎地区 道の駅ゆとりパークたまがわ
「メインは[豪華景品が当たるビンゴ大会] ・・・夏の夜のひと時をお過ごしください。」
たまがわ夏まつり田万川地域開催場所:江崎地区 弁天公園周辺
地元芸能中心のプログラムです。
まつりの最後を締めくくるのは約2,000発の花火です。
花火をセットした会場の台船は祭り会場から目と鼻の先。毎年大好評です。
江崎地区盆踊り大会田万川地域開催場所:江崎地区 コミュニティーセンター駐車場
●地元の盆踊りです。
小川地区夏まつり田万川地域開催場所:小川地区 萩市田万川総合事務所小川支所前庭
●地元の夏まつりです。昼の部・夜の部多数イベントあり。
西堂寺まつり田万川地域開催場所:江崎地区 西堂寺
8月24日(メイン)盆踊り・灯篭流し他、25日

(現在の航空写真・Googleと1975年の航空写真・国土地理院)

(引用:萩阿武商工会ホームページ)

江崎の町並みです。江崎大漁橋から撮影

江崎上本町より見た江崎港。 片上川にそって本町、土井、中町の街並みが広がる。 港の向こうにそびえる山は、行者様と磁場で有名な高山。 (田万川町・大正12年)

1991年8月、新市場から江崎湾を望んだ一枚です。

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さて、江崎を歩きます。

やきもちやさん。昔からあるコンビニです。

昔はここにしかテレビが無くて、みんなで見に来たそうです。

ここはかつての国道だったそうです。

 

江崎の町並み

 

お祭り

 

お祭り

このあたりです

 

ここは既に空き家のようです...。

1991年の写真・酒屋さんだったようです。

西堂寺(さいどうじ)・六角堂

六角堂・・・萩市江崎の西堂寺境内にあります。
木造で一面4.26m、高さ11mの六角円堂であり、一重の裳階(もこし)付き、屋根は宝形造りで本瓦葺きで江崎湾内の突出した岩上に建っており偉観です。
裳階(もこし)や内陣の柱は、すべて六角柱です。
大内から毛利の時代にかけて祈願所として世の信仰があつく、海の中の寺「浮島西堂寺」とも呼ばれ、広くその名を知られています。
また、この寺の地蔵尊は、使用人との許されぬ恋に落ち海に身を投げた娘の化身として伝えられ「子育て地蔵」と呼ばれています。

西堂寺本堂は、湧出山西堂寺と称し、宗派は曹洞宗、本尊は薬師如来、応永年間に創建されました。
この寺の境内にある六角堂の地蔵尊は、小川の里、鍋山長者の娘の化身であると言い伝えられています。
応永2年(1395)小川の里、鍋山長者の一人娘が許されぬ恋に悲しみ、二里余りの道を歩いて江崎の磯辺にたどりつき、自ら海中に身を投じました。人々は、漁網を沈め探し続けたところ、幾日かたって木像が網に入ってあげられました。
木像の姿が赤ん坊を抱いているように思えた長者の妻は、この木像を娘の化身とし、尼になって浮島に小さな御堂を建て、木像を安置し、生涯娘の菩提を弔ったといわれています。
この地蔵尊は「子育て地蔵」と称せられ、8月24日の地蔵祭りは、古くから北浦を代表する祭りの一つとしてにぎわいをみせています。

住職によると、島内は風は強いが波をかぶったことは一度もないという。

昭和初期の古写真

六角堂からの眺め

六角堂

[宗派]:曹洞宗 [本尊]:薬師如来 [本寺]:須佐町 大薀寺
[
本堂]:六間半〜五間、明治九年(1876)再建
[
地蔵堂]:六角堂ともいい、元禄九年(1696)に四角から六角円堂に再建される。
[
鐘楼門]:三間〜二間半 建立年月日不明、両脇の仁王像の作成年代不明
[
沿革]:開基は妙清尼といい、鍋山長者の妻で、応永年間(13941428)に、江崎湾の海岸から出現した 地蔵尊を湾内の岩内の岩上に御堂を建てそこへ安置したことからはじまり、はじめは済度寺(さいどじ)と いっていたが、いつのころからか西堂寺(さいどうじ)とよみ書きするようになった。地蔵堂は六角堂とも呼 ばれ、当初から六角であったかどうか、確実な資料に欠ける。「防長寺社由来」の寛保元年(1741)九月付 けに、
一、 本堂弐間半六角弐間半之廻り縁外作
一、 寺弐間半四間、仏壇ノ前四畳半茶ノ間四畳半、半間之縁長三間余、同勝手長四畳、外ニ押入有之 候事
とあり、当時は本堂が即地蔵堂であり、このことから判断して元禄九年の再建時に、地蔵堂(本堂)が六角 円堂に仕立てられたと考えられる。開山は、大蘊寺六世傑山文英大和尚(元禄六年五月二三日寂)である。
山口県教育委員会は、昭和56 年(198112 11 日西堂寺六角堂を、山口県指定有形文化財(建造物) に指定した。そして昭和58,59 年度の2 ヵ年にわたり、山口県と田万川町の補助を受けて、一部解体修理 工事を行った。往時、毎年9 24 日に地蔵まつりが行われていたが、現在では8 2425 日の2日間、 町内外から多数の参拝者でにぎわいをみせている。六角堂の隣の現在の本堂は、 嘉永年間(18481853)に火災により焼失したため、明治9 年(1876)に再建し現在に至っているものである。

(田万川町史より抜粋)

応永の頃(1400年頃)鍋山に住む長者の娘が江崎湾で投身し行方知れずになった。その後、漁師の網にかかった仏像を母は娘の化身と信じ、尼になり、江崎湾の浮き島に御堂を建てた。

西堂寺の古木です。脇の岩場・水面で腕の折れたカモメが休んでいました・・・。

バス停

六角堂から新市場へ向かう橋

江崎大漁橋を観る

1991年、江崎大漁橋が無かった頃。

川の流れです

電気屋さん。昔からあります。

昔このへんに釣具店があった記憶があります。

ちょっと怖いおじいさんが釣具店をやっていました。

新しいお店です。営業していました。

ブルーベリーのお店も。

新市場を眺めます。

いまはこのへんです。

 

 

新市場から見ます。正面の道の下で、昔はあさりをとりました。

1991年8月

 新市場です。変わりません。

1991年8月

ポンツーンも昔のままだと思います。

1991年8月

大橋を観ます。

新市場です。

いまは閑散としています。

このへんでよく遊びましたね。

1991年8月

西堂寺・六角堂で人が海を覗き込んでいます。複数のお客さんが来ていました。

橋を渡って対岸へ。厳島神社です。

昭和40年頃の写真・厳島神社

厳島神社(通称 江崎の弁天様)

祭神  市杵島姫命 瑞津姫命 田心姫命

境内神社  
三穂神社(事代主命) 
金刀比羅神社(大物主命) 
菅原神社(菅原道真命)

当社はもともと弁財天社と称して、弁財天を奉斎していた。
この神は元来インドの河神であり、日本に伝来して、七福神の一人として民間に伝わる女神であった。
この女神が、厳島の祭神と習合したものと伝えられている。

大正12年の古写真

 

歴史があります。

本殿は新しいようです。

昭和49年寄進の舞台。お祭りで使われたそうです。

旧市場があった場所です。ふるさとセンターが左にあります。正面青い看板は野村鉄工所さんです。船を直しています。

古い町並みですね。

港の北側の町並み。

このへんです。

 

 

大通りに出る手前です。お婆ちゃんが昔話をしていましたね。

水路があります。

↓道筋は変わらないですね。大正12年1923年

お寺がありました。

 

【寺 号】 教専寺(きょうせんじ)
【宗 派】 浄土真宗 本願寺派 山口教区 須佐組

             (じょうどしんしゅう ほんがんじは やまぐちきょうく すさそ)
【所在地】 山口県 萩市 大字 江崎

             (やまぐちけん はぎし おおあざ えさき)
【開 基】 永禄12年 (1569年) 5月 釈道専が開く

 

(奥様でしょうか?たまたまの私を見かけて「本堂を開けましょうか?」と言っていただきました。ありがとうございます。)

正直屋が見えます。

売り家になっていました。昔の衣料品店です。ここは支店で、本店は益田にあるそうです。

国道の交差点です。

左手にナカモト薬局さんが見えます。

江崎本町中本商店前、家族と従業員。中本家は度量衡器の販売・修理業のかたわら金融業などを営んでいた。左の小さな建物は当時の消防倉庫。街の中心地であった。

(田万川町江崎本町・明治末期)

交差点の近くにレストランがありました。かなり大きかったです。いいにおいがしていました。

(グーグルマップより)

レストラン松岡|Restaurant MATSUOKA

http://www.r-matsuoka.com/

駅へ向かいます。小学校がありました。

萩市立多磨小学校

山口県萩市大字江崎522番地

校 長   中島 義人
 本年度は10名の新1年生をむかえ、全校児童73名でスタートをきりました。

■ 児童数  73名
■ 学級数  8
■ 教職員数  12名 校長1名 教頭1名 教諭8名 養護教諭 1名 事務主事 1名    (平成26年4月8日現在)

明治  7(1874)年 9月     江崎小学校開設 
     8(1875)年 9月19日 下田万小学校開設
    11(1878)年 1月 9日 上田万小学校開設
    20(1887)年 4月 1日 上・下田万両校を合併。共励尋常小学校と改称
    24(1891)年 9月14日 共励尋常小学校の校舎を下田万関に新築落成
    25(1892)年 9月 1日 多磨小学校と改称。尋常科・温習科をおく。
    28(1895)年10月 1日 多磨尋常高等小学校と改称
大正  2(1913)年12月18日 現在の役場の位置に新校舎の新築工事を起工
昭和 16(1941)年 4月 1日 多磨国民学校と改称。初等科・高等科をおく。
    22(1947)年 4月 1日 多磨小学校と改称(6・3・3・4制実施)
    33(1958)年10月20日 現在位置に校舎改築工事を起工し、昭和35年9月 5日の間に三期の工事を竣工
    49(1974)年 9月14日 開校百周年記念式挙行

 

 近くに病院の跡があります。

もう40年近く前ですが、名医の先生が開業しました。そしてご結婚されました。しかし不幸にも病気で相次いで亡くなられたそうです。合掌。

当時のままに建物が残されています・・・。

 

近くに立派な石垣があります(グーグルマップより)

2015年4月には一部が崩落していました。お寺の跡でしょうか?竹薮になっていました。

 

新しい中学校もあります。

山口県萩市立田万川中学校

所在地  〒759−3112
      山口県萩市大字下田万1070番地

本校は山口県の北端に位置し、島根県益田市及び津和野町に隣接している。地域の中央を田万川が北流し日本海に注いでいる。昭和30年4月1日、旧江崎町と旧小川村が合併して田万川町が誕生し、平成17年3月6日に広域合併により萩市となる。平成15. 4. 1 12年間の歳月をかけて、町民の理解と創意を結集して、小川中学校と多磨中学校を統合し、田万川中学校として開校。新校舎ができるまでは旧小川中学校校舎で生活していました。

向かいの自転車屋さんは昔からあるそうです。

椿自転車屋さんのある三つ角。左は益田への道です。(グーグルマップより)

 

 遠くに駅が見えてきました。

江崎駅。おばあさんが昔話をしていました。

乗車人員推移
年度1日平均人数
1999144
2000128
2001114
2002111
200389
200490
200578
200681
200769
200866
200960
201049
201143
201249
201353

江崎駅の開業を祝っての縁門(アーチ)と地区民総出の祝いの出し物。

(田万川町下田万・昭和3年)

江崎駅。開業は昭和3年3月25日。山陰線が全線開通したのが同8年2月24日。
以来、駅前に人家が集まり、駅前通りの繁華街をつくる。手前の建物は多摩小学校。

(田万川町・昭和8年)

駅前のロータリーです。中華そば屋さんがあったようです。

やない食堂(柳井中華そば店)

JR山陰線の江崎駅前にあるラーメンの秘かな名店だったのですが、久々に訪れると閉店していました。

昔ながらの醤油系ラーメンで、懐かしさを感じられるしつこさのない味が、その建物の趣とともに好きだったのですが、2013年5月に閉店してしまったようです。定食もあり、好きだった店で、水害の影響で山陰線が止まったこともあり、どうなったのか気になっていたのですが…。どんどん寂しくなっていく江崎駅前の数少ない街の灯りだったのですが、閉店してしまったことが残念です。(食べログより)

 

駅から観ます。右手に松井医院が見えます。先代は亡くなったそうですがご令息が今も診察をされているそうです。

 

 

 一気に港まで戻ります。

この辺りです。

 

この下中町で「江崎のまるきぶね」が発掘されています。

現在は、防府市の海洋民俗資料収蔵庫に保存されています。

「まるきぶね」は、昭和30年(1955年)に下中町で発見されました。全長7.06メートル、幅員は83.3センチメートルあり、舟首には舟をつなぐ綱を通すためのくり残しの突起があります。材質はモミで、一本をくりぬいて作った「くり船型丸木舟」。県内で、はじめて発見されたものです。

http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/3286.pdf

[発見の動機]

 浜崎嘉人氏が水産加工場に加工用かまどを設置するため同屋内を掘り下げたところ地下約90cmの地点より発見したものである。

[出土地の地理的概要]

 田万川町江崎の市外地は、東南西は丘陵及び山にとり囲まれ、江崎湾が北に向って細長く日本海に開け、そしてこの湾の最奥部周辺に市街ができ、市街地は低地にある。まるきぶねの出土地点は、この江崎湾の最奥部の南岸の県道の両側に立ちならぶ人家をへだてて約45m内外の地点であって、又この出土地点より33m南にはけずりたった断崖をなす丘がある。

[まる木舟出土地点の地層及びまる木舟の出土状況]

 出土地点の地層状況は現在の地表下76cm91cmは埋立したものでその下は泥土層である。この泥土層の上面が即ち旧地表面で、まるきぶねはこの泥土中に存在していた。刳舟型丸木舟は、山口県においては始めての発見であり、勿論、現在本県においては、使用されておらず、その製作技法も伝えられていない。

ただここに注目すべきは「萩古実未定巻之覚」という本に萩鶴江の漁夫は元禄、宝永の頃までまるきぶねを使用していた記事のあることである。即ち「鶴江釣りと漁人の舟は丸木舟とて田舎の水溜の様に木を鑿りて舟として用之元禄宝永頃迄大方如此何時よりか今の様になりたり」とある。丸太舟とて田舎の水溜の様に木を鑿りて舟とし、というようにその造りについてはまことにばく然とした記事であってその詳細はわからない。

とにかく萩鶴江といえば江崎よりあまり遠くない同じ萩藩内の事でもあり、必ずや江崎地方にもその使用のことはあったと考えられ、この江崎出土のまるきぶねの年代を考察するに貴重な一つの鍵となるもので重要な記載である。

そしてこの江崎出土のまるきぶねの製作技法についてみるに既に金属製の刃物を使用している事は、うなずかれる。岸に打ち込んだ杭は刃物で削り舟首に残っている舟繋ぎ用の綱を通すためのくり残しの突起や、その他舷の数カ所にある穴のあけ工合など何れも刃物を使用した形跡があること等、既に金属製刃物使用期に製作されたものであることを証している。

http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/index.html

 

この辺に釣具・釣りえさ店がありましたけど、どこだったか分かりませんでした。

近くに豊田物産さんがあります。豪家ですね。

 

豊田物産(株)
酒粕 長州漬
〒759-3113
山口県萩市江崎1190-1
  TEL:08387-2-0074
  FAX:08387-2-1563

【代表商品】
 長州漬

 

この左の駐車場には昔(40年前)には土塀の蔵がありました。

お葬式

昭和50年代の写真です

旧市場があった場所まで戻りました。

船も減りましたね・・・。

かさ上げ工事をしています。地盤沈下もよんでいるとか・・・。

1991年8月。船がびっしり停まっています。

旧市場の写真で終わります。

 

 

萩のあまだい船団(文章はテレビ朝日|食彩の王国より)
萩の中でもアマダイ漁の船が最も多い江崎漁港。深夜小型船に一人で乗り込み、その日のうちに水揚げする江崎のアマダイは、より鮮度がいいと大評判です。網ではなく一匹一匹を釣り上げる「延縄漁」。一人で漁をする様々な工夫と苦難の歴史を紐解きます。冬の日本海での漁を終え、夫婦水入らずで囲む暖かな食卓。釣り上げた甘鯛の塩焼きは晩酌の肴に緊張が解けた漁師の笑顔がこぼれます。

山口県萩の周辺は水深200mくらいまでの海底がある大陸棚で餌が豊富なため、アマダイの好む環境が揃っている。江崎漁港はアマダイ漁の船が最も多い漁港だ。魚上では漁師の奥さん津田厚子さんがアマダイの餌の準備をしていた。餌はイカで、小さく刻み一つづつ針にかけていく延縄漁をして捕る。漁師の仕立克美さん(74)は、20歳の頃に漁師となり、イカやイリコイワシの漁をしていたが、不漁が続きそこで目をつけたのがアマダイだった。

 

 

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